今回のブログは、「シンパシー」と「エンパシー」の違いについて紹介したいと思います。
「シンパシー」という言葉は、何となく聞いたことがあるという方はいるかもしれませんが、「エンパシー」は、あまり聞きなれない言葉ですよね。
「自閉スペクトラム症の精神病理」内海健 著(医学書院)という本で「シンパシー」と「エンパシー」の相違について記載されており、その本での一説では、このように説明されています。
『「シンパシー」とは、「こころ」を介さない無媒介なもので、つまりは、自他未分な地続き的な共感で、むしろ「共鳴」といったものです。それに対して「エンパシー」は、他者の心に対する「共感」で、より論理的で、社会的な共感です。』
ちょっとわかりにくいですよね?
共通しているのは、どちらも『共感』という意味合いを持つ言葉です。
この『共感』という部分の違いを「共鳴」というニュアンスの違う似た言葉を用いながら、極端に解りやすい例であげると、
・宮川大輔さんの食レポの「うまい!」と絶叫するのは、その料理という物に対してのシンパシー的な共鳴です。
一方、彦摩呂さんの食レポで「○○の宝石箱や~」など、視聴者が、どう感じ、どう伝わるかを意識した視聴者のこころを介した表現の仕方は、エンパシー的な表現だと言えます。
・スラムダンクの漫画でいうと、エンパシー側は、桜木花道で、シンパシー側は、流川楓。
・ドラゴンボールでいうと、エンパシー側は、孫悟空で、シンパシー側は、ベジータ。
・鬼滅の刃でいうと、エンパシー側が、竈門丹次郎で、シンパシー側が、富岡義勇。
・白い巨塔では、財前先生が、シンパシー側で、里美先生が、エンパシー側など。
ドラマやアニメでは、多くはエンパシー側が主人公になりがちで、そのライバルとか、重要なキーマンに、シンパシー側がなりがちです。
乱暴な例えかもしれませんが、キャラクターにあてはめると、エンパシーとシンパシーという「共感」の仕方の違いが、何となく感覚で理解してもらえるのではないでしょうか?
この、「シンパシー」と「エンパシー」という「共感」における2分法は、ASDの心性を理解するのに非常に有用となります。
ASDの人たちの多くは、こころを介した共感、すなわち「エンパシー」が苦手で「シンパシー」の方が得意です。
シンパシーは「心の理論」を介さないもので、「こころ」を経ないで成立し、むしろ「こころ」は邪魔になります。
人間以外のものは嘘をつかないし、ウラがない、そして裏切ることもない。そうした物や生き物に対して、ASDのシンパシーが発揮されることがあります。
釣りの達人、虫取りの名人、カリスマ的な飼育係など、シンパシーによる交感には「こころ」という屈折がなく、表現と意味が一体になっています。
一方、定型発達者では、生後9か月革命といわれる、ひとみしり以降、エンパシーがシンパシーにとってかわっていきます。
それに対して、一部のASDでは、シンパシー能力が保たれ、定型者が、こころを経由しないとわからない他人の状態がASDには直接に伝わることがあります。
たとえば、親や周囲の人の不安や怒りを直接感じ取ったりします。ただし、それを言語で表現する術を持たないので、表現するときにはパニックで反応することが多くみられます。
他方、ASDは、悪意、善意、親切、嫉妬、やっかみ、ふてくされ、不機嫌、当てつけ、皮肉などとなると、さっぱりわからなくなります。
これらは、「こころ」を前提としているからであり、こころを介した感情はよくわかりません。
シンパシーは、ソーシャルな場面になると、場違いなものとなりがちです。
例えば、禿げ頭や片腕がないといった人の欠陥を、あからさまに面白がったりします。
そこには、相手を侮辱する意図はありません。
彼らにしてみれば、ただただ面白いだけなのです。しかし、その場に居合わせた人はびっくりしてしまいます。
ASDと定型者との違いを理解する上で、この「シンパシー」と「エンパシー」という感じ方の違いを、このように定義しておくと理解しやすいと思って、少しだけ述べさせていただきました。