座禅中に、「呼吸に意識を集中し、その呼吸回数を数えるように」と、僧侶から指導されたのですが、普段、呼吸することに対して意識などしたことが無いので、呼吸に意識を集中しようとすればするほど眠くなったり、頭の中で「座禅終わってからどうしよう?」「今日の夕飯はどんなんかな~?」などの雑念が無数に押し寄せ、結局ろくに呼吸回数を数えることなどできませんでした。
座禅後に僧侶から「人間は何かに集中しようとすると、それはある意味危険なことだから、反対に、違うことに意識が向かうものです。」 と言われました。
確かに人が呼吸や心拍など、いわゆる自律神経の働きなどに意識を集中させ内的な世界に入ろうとするということは、外的な世界を遮断するということです。
弱肉強食の自然界に生きる動物が、もしこのような座禅を行い呼吸に意識を集中なんかしていると食べられてしまいますもんね。
おそらく、人には本来生まれながらにして外界刺激を遮断するということを避けたいと思う気持ちがあるのかもしれません。
しかし、修行を積めば雑念もコントロールできるようになることを教えてもらいました。
また僧侶は「雑念が浮かんできても、それに抗うのではなく、そのままにしていいですよ。」と言われました。
また、以前から思いはありましたが、今回の座禅体験後から特に、例えば他の本を読んでいたりしても「 また座禅をしたいな~」と、頭をよぎることがあります。
ですが、滋賀旅行で行った座禅体験以降、一切座禅はしていません。
正直、座禅を組んで現在の思考に埋め尽くされた自分の心の状態を遮断するという事に、
なぜなら、それはすなわち「心の平穏」に至ることは「死」を意識することに他ならず、多くの不安は最終根源的には「死への不安」に繋がれているような気がします。
だから、アルコール、ギャンブル、ドラッグなど刺激の強いもの、つまり 「死」を意識することから遠ざけるようなものを人は好むのだと思います。
内的な世界、本当の自分と向き合うことの大切さと、そこから逃げて思考過剰状態にして思い悩むことは、ある意味では楽な事なのだと思います。
でも、その怖さと向き合って「今、ここ」に意識を集中させると、思考過剰状態から解脱して本当の自分に出会えるのかもしれません。
そういえば、一緒に座禅体験をした子どもたちの方が、僕のような邪念が出ずに僕よりもよっぽど普通に呼吸に意識を集中させることが出来ていました。
雑念だらけの自分を一先ず受け入れて、日々の生活を送ろうと思いました。