2019年5月30日木曜日

「褒めること」は「叱ること」よりもずっと難しい

前回のブログに引き続き、今回のブログのテーマも「褒めること」と「叱ること」について、個人的な意見もふまえて書かせていただきます。

前回のブログでもふれていましたが「褒めること」は、すごく難しいことだと思います。
前提として、相手をちゃんと観察する必要がありますから。
ですが「褒めること」の重要性は、論を俟たないところであるとしても、ことさら大事なのはタイミングです。
正に、冒頭で述べているように観察していないと出来ない難しいところではありますが『ここ!』という時に褒めれば、相手も喜び、頑張る原動力になるだろうと思います。

また、褒めるときは出来るだけわかりやすく簡潔に、さりげなく褒めた方がいいのではないでしょうか。
その方が心に沁みるし、印象に残ります。

逆にくどくどと褒めると、何かわざとらしさが出てきて褒める言葉の価値は半減してしまうように思います。
本人自身が、自分で思っている評価よりも少し上の評価を下すことが大事だと思います。

このように、文字にしてブログでご紹介していると計算高く感じてしまわれるかもしれませんが、自然と無意識に出来るほど、実は簡単なことではないように思っています。

言葉だけを発するのではなく、この観察することからの一連で、褒められた相手は自信がつき『自分のことを見てくれている』と嬉しくて『頑張ろう!』ときっと思えるはずだから。



2019年5月23日木曜日

「褒めること」も「叱ること」も、そのバランスが大事!

最近、パワハラとか、虐待、体罰など、頻繁にメディア等で取り上げられていますが、問題として取り上げられている多くのケースで気になっていることがあります。

まず、そもそも、対人関係で相手に対して指導する上で、上の立場にいる人が 「叱ること」「叱られること」 に慣れていない、又はちゃんと叱ってもらえた経験が少ないような気がします。
子育てのことでいうと、叱られることに慣れていないで大人になったら、ちょっと叱られるだけで心が折れてしまって、誰か褒めてくれる人が現れるまで、社会から逃避し続けるのではないかと心配になります。

もちろん色々な側面はあると思いますが、ただ褒めて伸ばす教育だけだと、心は強くならず、むしろ、自分のことしか考えない、周囲に配慮ができない、自分の力を過信するなど、勘違いした大人になっていくような気がします。
それに褒められることに慣れてしまうと、褒められても喜びが感じにくくなり、ちょっと叱られただけで、かなり落ち込んでしまうという傾向になりがちです。

最近の職場における上司、学校の先生、医師といった僕なども含め、いわゆる管理職の立場の人が、相手を褒めるばかりで、叱れない、叱ることが出来ない環境や状況が増えているような気がします。
それを自己分析してみると、叱ることで、相手に反抗されるのが怖いからだと思います。

しかし、教育的な指導において、叱られることで相手は反発します。
その気持ちをバネにして、成長に必要な力が生まれてきます。
叱られた後に、「どうして叱られたのか?」「何が悪かったのか?」を、自分自身で自問自答することで成長促進的に進んでいけるという過程が開けていきます。
そのためにも、上に立つ側、指導をする側は、普段から観察しておく力が必要だと思います。
その観察力がないまま、何かを褒めても、叱っても意味はない気がします。
褒めること、叱ること、どちらにせよ、相手を思う気持ちをもって成長を願って伝えていければ、相手が成長していくプロセスに向かうような気がします。
そのことを意識して、日々を過ごしたいと思います。

「褒める」ことが大切だからこそ「叱る」ということも、すごく大事だということは覚えておく必要がありますね。



2019年5月16日木曜日

人に伝える際に、伝える側が大事にしておくべきこと

今の時代、子どもらに対して「こうしたら?」だけだと、なかなか伝わらず、どうしても行動してもらえません。

これは、診察場面や子育てなどを通じて僕が実感していることです。
正直なところ「動いてもらいにくいな~」というのを毎度、痛感しています。

ではそのようなとき、どうしているのか?
まずは彼らのニーズや目標などを明確にし、それを共有していく作業が必要で、多くの場合、それを優先して行っています。
例えば
「なんのために自分は頑張らなくてはいけないのか?」
「頑張ることで、何が得られるのか?」
という具合に、明確にした目標に向かうことで〈変わりたい〉という本人の欲求や気持ちが揺さぶられる必要があります。

それがない状態で「こうしたらどう?」では、なかなか動いてもらえません。
また、相手とこちらの関係が「まぁまぁ、こいつの話なら聞いてみようかな?」と、ちゃんと思ってもらえていないと、やっぱり動いてはくれないです。

共有することや関係性ができていない場合では、どんなに正しい言葉でも相手の耳には届かず、むなしくこぼれ落ちてしまいます。
逆に信頼関係があれば、いつか届くはずだと思います。

だからこそ、日々、誠実に人と向き合っていくしかないと思う日々です。



2019年5月9日木曜日

僕のGWは、こんな感じでした

新天皇即位の祝日になったことと、祝日法により10連休となった今年のGWでしたが、みなさんはどのように過ごされましたか?
10連休という大型連休でしたので、事前に色々と予定をたてておられた方も多かったのではないでしょうか。

僕も、両親や家族との予定をそれなりに考えていました。
が、
GW直前に妻が転倒して腕を骨折するという災難に見舞われてしまいました。。。

とりあえず夕食などを済ませたのちに診療時間後のクリニックで、ひとりで仕事や勉強をすることがあるのですが、その日の晩も同様にクリニックで仕事をしていました。
すると、あまりかかってこない時間帯なのにめずらしく携帯電話が鳴りました。
画面を確認すると着信は妻からで、とってみると電話越しの声から緊急事態だということがすぐにわかりました。

すぐさま自宅に戻ると、取り乱した妻は、変形した手首を抱えて泣きながら「ごめんなさい、ごめんなさい」と、僕に謝っていました。
見た瞬間に骨折だとわかったので、すぐに救急車を呼び応急処置をしながら「大丈夫、謝らなくていいよ、大丈夫やから。」と声掛けをすると、次第に妻は落ち着きを取り戻しました。

ここからは一部、精神科医としての側面で僕の体験や所感をつづらせてもらいます。

実際上の骨折による局所的な疼痛(とうつう)という痛みと、変形した手首を本人が見て「この先どうなるだろう」「もし責められたらどうしよう」という不安や、「家族に対して申し訳ない」という気持ちなどが混在した状態で「心理的疼痛」が影響し、骨折による疼痛が何倍にも増幅していくという、余計に心身の悪循環の相互作用を来しているといった状況でした。

そこで「夫である僕が家に戻ってきてくれたこと」「夫である僕が自分のことを責めていないこと」「治療的な方向性に向かっていく」という安堵感から不安が少しずつ軽減していき、骨折による局所的な疼痛という痛みのみに分割していきました。
何がいいたいかというと、それくらい実際上の骨折の疼痛という身体の痛みに対して、心理的な疼痛という心の状態が、かなり影響していることを改めて実感しました。

その後も、救急車が到着し搬送される救急車内で、妻の表情はみるみる青白くなり過呼吸を呈しかけていきました。
ここも、骨折という激しい疼痛と、狭い救急車内での馴れない環境下により、自律神経が乱れ、過呼吸を呈していきました。
僕がすぐに救急車内のベッドで横になるように誘導し、手を握りながらゆっくり深呼吸をするように指示し、支持的に対応することで病院に到着した時には落ち着きを取り戻すことができていました。

症状としては重症ですが、それほど大事には至らなかったので、こうやって精神科医として振り返り、あまりしたくはありませんが正に渦中でのリアルな経験により、心身の相関を対人の相関で働きかけることにより心身が落ち着いていくという、個人としての心身相関の悪循環が、対人としての相互作用を通じて消失していくことを強く感じることができました。

病院に到着してからは、病院スタッフの対応の一つ一つが我々夫婦にとっては、いかに支えになったことか。
ほんの少しの支持的な声掛けでも、どれだけ我々夫婦の不安や動揺を落ち着かせてくれたことか。
確かに、GW直前という最悪な状況での救急受診だったので、待ち時間は凄まじく長く、正直イライラもしました。
でも、スタッフの方の真摯な対応や、声掛けへのありがたさを実感させていただきました。
やっぱり、自分が患者さん側に立つことでの「気づき」が、本当にたくさんありました。
そこを大事にして、今後の自分の診療にも生かしていきたいと思いました。
楽しみにしていたGWの予定はすべてなくなり、家族全員が号泣しましたが、家族の健康の心身の大切さを気づかせていただいたという点では、とてもいい経験になりました。

妻は、この骨折に伴い家事のほとんどができなくなりました。
と同時に、妻以外の家族全員が、多くの家事を当たり前のように妻にして貰っていたことに気づきました。
そうせざるを得ない状況になって初めて、僕や子どもたちは、料理、家事、掃除など、普段、妻にしてもらっていたことをすることになりました。
正直、全然できてないし、子どもらも動揺しています。
ですが、こうした妻の怪我という危機により、家族の相互の役割が変化するチャンスが到来しているのも感じます。

仕事ばかりで、妻がしてくれていることが、いかに自分には出来ないかに気づく夫。
普段から妻がしてくれるからと甘えていた部分を、急に自分たちがしなくてはならない状況に直面化して変化し始めている子どもたち。
一見、家族が停滞している、悪化しているように見えても、妻を支えようとすることで、らせん状に成長しているように僕には見えています。

妻には、手術、リハビリを頑張ってもらって、僕は、少しでもその支えと家事、育児の分担割合を増やしていき、子どもたちは、これまで母にしてもらっていたことを自分でやるようにしたり、家事(料理、掃除など)をやれるようになるチャンスです。

実際のところ、家族全員が、泣いたり、怒ったり、喧嘩したりの大型連休でした。
でもこれが、リアルな我が家の「ゴールデン」な「ウィーク」でした。