2023年10月25日水曜日

思春期心性は、ネバーエンディング~

 勤務医の頃は、よく学会に参加させていただきました。その際に、大御所の児童精神科医の話を聞きにいっていました。大御所の児童精神科医の先生曰く、

「現代は、科学技術も進歩し、寿命も延びて、それに伴って、思春期心性や思春期年代も延長している。思春期年代(おおかた、10歳頃から20歳頃まで)を終えても、何度でも危機的な状況になれば、思春期の頃の心性が活発になる。」

 確かに、愛着の問題を思春期から成人期に移行しても未解決なまま、そこにぶつかって、人生が前進しにくい状態に至っている人が多く認めています。

 大御所の先生は、思春期心性は、何度も何度も再活性していくから、終わりはない、ネバーエンディングストーリーなんだと話しておられました。だけど、一つの区切りは、40歳前後かな~とも話されていました。40歳といえば、人生は後半になり、寿命なども意識するし、死んじゃいそうな病気を認めたら、愛着の問題とか言ってられないからかな~とも思います。

 僕も、38歳で開業して、6年が経過し体重は10kg太って、もう色々しゃ~ない になって力は抜けてきている気がします。諦めの境地、まあ及第点でいいやんみたいな~。

40歳前後ですね。脱力して、あちこちが緩んでいくのは。これを、成熟と呼ばせください!自分自身も、思春期心性からおっさん心性に移行しているのを感じている今日この頃です。

 

2023年10月18日水曜日

運転手は、車酔いしない理由

 こどもが夏休み期間に、お墓参りに家族で行ってきました。墓参りは、山道を僕が車で運転し、僕の粗い運転技術により、僕以外の同乗者の家族全員が車酔いをしました。

 そもそも乗り物酔いは、耳の奥にある体の平衡感覚をつかさどっている、三半規管のリンパ液が乱れることで起こります。「運転している人は車酔いしにくい。」と言われていますが、これは、運転手は自然に車の 進行方向を意識できているためです。当然、運転手は運転中に頭を頻繁に動かしたりよそ見をすることはありません。加えて、自分の意志でハンドルを切っているため、平衡感覚が乱れにくく、「前に段差があるから揺れる」「次はカーブがあるから体が傾く」などの、目から入ってくる情報から予測・判断ができるため、情報のずれが生じません。ここに、運転している人は車酔いしにくいと言われている理由があるのです。

 一方同乗者は、基本的にずっと前方を見ている運転手と違い、周囲の景色などを見たり、他の同乗者と会話をしたりと、頻繁に頭を動かすことになります。その結果、三半規管のリンパ液が乱れ乗り物酔いを誘発することになるのです。

 精神科医的には、「運転と人生は似ているな~」と思いました。自分の体を車で見立てると、周囲の人はどうかを意識してばかりいたり、何らかの理由で、運転手が、他の誰か(親だったり、上司だったり、世間一般だったり)に奪われてしまう。そのことによって、不安、抑うつ、心身症状、自我障害を起こして幻覚妄想状態になることもある。これは、運転でいうところの車酔いと似ているのかもしれない。自分の人生の運転手である、自分自身がしっかり主体的に運転し、自分の思ったように進んでいけるようになると、車酔いのような症状は改善するでしょう。

 僕の家族の皆が、墓参りで車酔いしている時に、自分の運転の粗さを反省するよりも、そんなことを考えていました。次回から、もう少し丁寧な運転を心掛けたいと思います。

2023年10月11日水曜日

治療者としての反省

 今日の診療は、おおかたは及第点でいけていたな~と思っていたら、最後の診察で、残念な診察となってしまいました。日々の診療で、当然、患者さんが良くなるように、こちらも限られた制約ではありますが、日々精進して、精一杯頑張っています。

 しかし、その反動として、こちらも患者さんに治療的な関わりのために頑張っているからこそ、患者さんに対して、良い変化を期待し過ぎて、患者さんに寄り添うことや労うことよりも、患者さんに対して介入、改善を優先し過ぎて、患者さんにとっては、否定されたと傷ついてしまうという診察になってしまうことがあります。

「残念です。申し訳ないです。」「日々勉強です。」

 自分自身が改善したり、頑張ることに集中して、その見返りによる治療的な変化は、患者さんの中で生じることであって、僕自身が、その患者さんの変化を期待し過ぎてはいけない。

 患者さんに起こる変化は、少しずつだし、あくまでも患者さんの変化のペースに、スモールステップに、こちらも合わせることが、プロの治療者だと思う。その反省をここに述べて、また、明日から、自分のできることに集中していきたいと思います。

2023年10月4日水曜日

山登りで感じたこと

  生きていることは、山登りに似ているから、年に数回は登山をしたくなる。人生で、山頂を見失って、ただ、さまよっているだけに感じたり、孤独だったり、苦痛だったり。でも、実際は、それも含めて、登っているんです。死なないことを選択し、何とか耐えて生き続けて、苦悩していること、そのものが登山であり、人生です。

 我々が、人生で登っている山は、大谷選手が登っているような前人未到の素晴らしい山じゃないかもしれない。金剛山とか、又は天保山かもしれない。でも、自分にとっての山登りをしている。その山という人生に、優劣はないんだと思います。少なくとも、自分という人生の山を卑下しないで、登る。(生き続けるだけで十分、登っているんです。)

 当院は、時に登山ガイドになったり、山道の応援者であったり、少しは、道を照らしたりして、患者さんの少しの役に立てたなら嬉しいです。僕自身も、生きてて苦しいです。でも、お迎えが来るその日まで、人生という山登りは続けたい。また、今度もロープウェイがついている山に登るか、低山を登ろうと思います。