2020年5月7日木曜日

思春期の頃の自立の芽生えは、否定的なものから出てくることが多い!

新型コロナウイルスの感染拡大に伴う緊急事態宣言が発令され外出自粛要請が続くなか、異例のゴールデンウイークをむかえましたが、みなさんはどうお過ごしでしょうか。
「せっかくのゴールデンウィークなのに、家族でどこかへ行きたい!」と思っている方もいるでしょうし、意外と思春期の子どもたちの場合は「今年は家族と出かけなくて済んで助かった!」と思っていたりするかもしれません。
思春期をむかえた子が、そんな風に思うのは決してわるいことではありません。
多くの人が、親と一緒にいるところを友達にみられたら恥ずかしいと思った時期を経験したのではないでしょうか。

診療していて、最近とくに感じるのは「親御さんの感じている自立」と「僕の感じている自立」のギャップです。
ちなみに「自立」という単語を辞書で調べてみると、
・他への従属から離れて独り立ちすること。
・他からの支配や助力を受けずに、存在すること。
といった意味合いになります。

親御さんにとってのお子さんの自立とは、自分で身の回りのことができたり、親に言われるまでもなく勉強とか社会活動を本人なりにやれているという状態をイメージしていることが多いように感じます。
でも、治療者としての僕の視点では、例えば「学校に行かない!」と言い出すとか、親がちょっと注意しただけで激高するなど、 思春期の頃の自立の芽生えは、一見ネガティブなものであることが多いのです。

皆さんは、尾崎 豊さんという歌手をご存知でしょうか?僕らの世代では知らない人はいないのではないでしょうか。
夢や愛、生きる意味をストレートに表現した赤裸々な歌詞など、社会や学校の中で感じる葛藤や心の叫びを表現した楽曲の数々が1980年代から1990年代初頭にかけての若者を中心に多くの人から共感を呼びました。
1992年に26歳という若さで亡くなられたのですが、その作品と活動、精神性は、日本の音楽シーンに多大なる影響を与え、作品にほとばしるメッセージは25年以上経過した現在でも多くのファンやミュージシャンに支持されています。

尾崎 豊さんは、1983年12月にシングル『15の夜』とアルバム『十七歳の地図』で高校在学中にデビューされたのですが、その『15の夜』という曲に
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盗んだバイクで走りだす 行き先も解らぬまま
暗い夜の帳りの中へ
誰にも縛られたくないと 逃げ込んだこの夜に
自由になれた気がした 15の夜
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という一節があります。
曲全体は知らずとも、このサビの部分は知っているという方も多いと思います。
この曲を評論するつもりなど毛頭ありませんし、この詩を文字通りにだけ読むと、賛否両論があるのかもしれませんが、フィクションや表現の仕方として楽しんだ場合、このような世界観が非常に自立の芽生えである反抗期をうまく表現できていると感じます。

個人的な解釈では、 この「自由になれた気がした」という表現は、実際は親の支配や社会的な支配という部分から、自由にはなれていないことは自分なりに自覚はしているんだけど、少し自分なりに親や社会という支配から自分らしく生きていこう!という戦う姿勢は示せた、というところでしょうか。

以前のブログの中でも何度か触れていますが、僕は、高校3年生の2学期の進路相談で、初めて医者になりたい、医学部に行きたいと担任の先生に伝えました。
すぐさま、担任の先生からは「作田君のこれまでの成績では、到底無理です」と言われ、なおかつ「内申書の成績も悪すぎる」と指摘されました。
僕は焦ってしまい、内申点を少しでも稼ごうと定期テストでカンニングという姑息な手段を使ってしまいましたが、すぐにみつかり、その定期テストは全教科0点になり、停学処分を受けました。
もちろんカンニングはダメな事ですし、今思えば、みつかって良かったなと思います。
しかし、それは僕にとっては、自立の芽生えだったのです。

その後、3年浪人して医学部に入学しました。
このような出来事は今でこそ、改めて振り返るとそうだったな、と思えることです。

親御さん自身の自立の芽生えは、どんなものでしたか?
親になると、自分の自立の芽生えなんか、すっかり忘れてしまっていたり、思い出したくない記憶として片隅に追いやりがちですよね。
子どもが「言うことを聞かないな」「思うようにいかないな」と、親御さんが思っている時は、結構、子どもの自立の芽生えかもしれませんよ。
親としては戸惑いつつも、それは正常な発達として、心のどこかで嬉しいと喜べるといいな、と思います。
でも真っ最中にいると、なかなかそうは思えないもんですけどね。。。