1853年にアメリカのペリー一行が、黒船軍艦4隻で、神奈川県三浦半島の浦賀沖に表れて、すぐさま徳川幕府に強硬に開国を迫られて、日本国家は動揺、混乱しました。また、その際に、ペリーから、船に国旗がないと、どこの国の船かわからないから、大砲を撃ち込んでも国際法上いいことになっているので、今度、来日した際に、国旗をつけていない船が、アメリカの黒船に近づいてきたら沈めます」と、幕府に忠告されました。そのため、徳川幕府は、慌てて国旗を作るように決議しました。薩摩藩主の島津斉彬は、薩摩の城内の座敷から桜島に上がる朝日を見て「輝き出ずる太陽の光を以って、日本の将来は古代から日本人がいのちの恩としきた、かがやく太陽のようではならぬ・・・」と考え、太陽のマークである「日の丸」を幕府に提案しました。しかし、幕府の大半は、「中黒の旗」(白地の中央に黒の横一文字)だと主張し、紛糾した上で、最終的には、水戸藩の徳川斉昭は、昔から多くの国民が親しんできた日の丸に決定するように幕府に指示し、1854年7月11日、「日の丸」を国旗とする布告がなされました。
日本では、聖徳太子が遣隋使に託した文書以来、自国を「日出ずる国」とする考え方が古来よりあり、赤い日の丸は、日の出の太陽を象徴する。また、紅白は、日本の伝統色で、めでたいものとされており、赤は博愛と活力、白は神聖と純潔を意味するとも言われている。日本は、本来、太陽をとても大事にする明るくて、前向きで、文字通り太陽のように熱くて温かな日ノ本、日本だったのです。(つづく)
「日の丸」 「中黒の旗」
0 件のコメント:
コメントを投稿