2020年11月19日木曜日

個人が、家族が、社会が、フードコート化している印象です。

 来年の1月に、堺市発達障がい者支援センターで講演を予定していて、休日や空いた時間をみつけては、その講演の準備をしています。

その講演で「発達障害者が、定型発達者と違っててもいいやん~」と訴えたい気持ちもあるけど、社会的な現状などを考えたりした際に、そんな綺麗ごとだけではダメだなという気持ちもあります。

そもそも僕自身という個人においても、対人への受け入れ幅は、年々狭くなってきている気がします。

コンビニとかでもレジでちょっと待つだけで以前よりもイライラします。

また、家族で外食に行こうと話しあっても、各々が食べたいものを譲らないから、結局、フードコートに行ったりします。

お互いに譲り合うとか、協調性は年々低下している気がしています。

社会全体においても、間違いを犯した人間に対してSNSなどを含めて容赦ない鉄槌を下す感じは、僕自身、恐怖すら感じたりします。

社会的、組織的、家族的、個人的あらゆる角度から、違いや受容する幅が年々狭くなってきているような感じがします。

それだけ社会的に色々なことを受容せよという圧力を、みんなが受け過ぎて逆説的に受け入れ幅が狭くなっているのかもしれないとも感じています。

だからこそ、発達障がい者支援センターでの講演では、違っていることをちゃんと診断として出してあげることで、自分自身やその人の周囲の人に分かってもらう必要があると結論づけたいという思いがあります。

僕自身は、最近は発達障害の診断は、鋭敏かつ広く診断するようになってきています。

大人で40歳台とかの人でも知能検査を改めてやってもらって、発達障害とか知的障害とかを明示化していくようにすることが増えています。

「リアリティーの向上は、常に朗報である!」という考えで、なるべく診断や見立ての精度を僕自身があげていって、患者さんが、自己受容、周囲の人にも受容してもらえるように、そのきっかけが、診断や精神保健福祉手帳、医療的な支援(薬物療法、心理教育、精神療法)などになったらいいなと考えています。

診断とかをつけないと、「能力障害なのに、モラルの問題、やる気の問題とか、KYなやつや!、コミュ障やな~!」なとと絶えず周囲から否定され続けて、本人自身も自己否定が強まっていくのを防いであげたい。そういう防波堤になることもあるので、僕の役割は重要やなと思う今日この頃です。