2025年7月30日水曜日

凡夫の精神科医です!

 僕自身も、診療から離れると、悟りを得ていないただの凡夫です。そこに、ADHDの傾向もあるので、私生活では、年齢に比して幼くなります。自宅に帰ると、小3くらいの自分がいますし、実家に帰ると、年長さんくらいにまで精神年齢が低下していきます。

 一方で、日常の診療場面では、僕は、46歳男性で、医師のふりをして社会活動を送っている影響もあるのか?私生活の自分は、「我」が強いな~と感じています。それに、プライドが案外高く、傷つきやすい。そうなると、私生活では、自分より弱いと判断した相手に対して、コントロール欲求が強くなっているように感じるときがあります。他者に対して「僕が言ったことを、なんで聞いてくれないんや~」と、結構、相手に対してイライラしやすい自分がいることに気づくのです。これを仏教用語では、「我」が強く、「慢」(自分を高くみて他人を軽視する、自己中心的な思い上がりのこころ)に気づきました。そこからが、精神科医としての僕の考察です。僕の心のどっかで、心が豊かになりたいという欲求があるのですが、自分は悟りを開くことはできない、一生、凡夫で人生を終えることが分かった気がします。そのうえで、こうした、自分の中の煩悩に気づけたら、そのままにしておくようにしています。それに加えて、なるべく、イライラした対象者との情緒的な交流を控える。なるべく、交流を減らす、または、表面上の交流のみにしておく。そのままにしておいたら、少しイライラが軽減していくことに気づけました。その際に大切なことは、「正しいか、間違っているか」に執着しないようにしておく必要があります。正しいかどうかなんて、きっと神様、仏様からみたら、凡夫がすることなんて全部間違っているのですから。それでも、きっと、あの世にいったら許してくれるはずです。だから、自分がいかに正しいかどうかに固執していたら、煩悩にやられるので気をつけましょう。そして、上から相手をみて評価していた自分から離れることができていくと、次第に、相手がしてくれたことを、有難いなと素直に感じられる自分もいたことにも気づけます。もちろん、自分は、凡夫なので、煩悩にまみれた自分は、その次の瞬間には、ふって煩悩が湧いてくるのですけど。自分は、今日も、「凡夫の精神科医」として、煩悩にまみれている自分だが、煩悩を消そうとしたり、それに支配されたりはしないで、そのままにしておくことを目指しつつ、でも、実際は、煩悩に揺れているような状態で今日も生きているのです。そして、誰かにイライラした際は、自分の中の「我」や「慢」という煩悩に気づけるチャンスです。

 人生は、日々修行です。凡夫には、凡夫の修行が生きる意味の中にあるはず。死ぬときには、ちょっといい凡夫になって、最後は「南無阿弥陀仏!」と唱えて、「極楽じゃなくていいから、ちょっといいところにいきたいな~」とやはり煩悩にまみれて人生を終えたいと思います!

2025年7月23日水曜日

小学校~それは小さな社会~

 主題のタイトルは、集団行動や勤勉さといった日本的価値観が小学校の6年間でどのように育まれているのか。小学校1年生と6年生に焦点を絞り、その学校生活を丁寧に見つめていくドキュメンタリー映画です。僕は、この映画そのものは視聴していません。ただ、20数分のショートカット版をユーチューブで視聴しただけです。結構、この映画で、コメンテーター等の方も好意的で支持的な発言が多かった印象でした。教育評論家の方も、世界にも発信する価値があるものだと。僕は、視聴して感じたのは、結構リスキーな教育を、日本は現在でもしているな~と思いました。映画での、音楽の発表会の練習の際も「自宅で、練習していたのか?やる気がないなら帰ってもらっていいです」と追い込む先生の姿がありました。幸い、サポートケアしてくれる先生がいたので、何とかなったけど。もし、そうでないなら?不登校になってもおかしくなかった。周囲と協調していくことの大事さを伝えたかったのでしょう。これを、小学校年代という早期の発達段階で学ぶと、自分よりも、周囲への意識が高まりすぎてしまう。結果的に、自分軸よりも他人軸を重視して生きようとしてしまう、いわゆる「過剰適応」な子を作ってしまうリスクがあることを、もっと認識してほしいと僕は感じました。その結果、それができない子は、将来、自分を過度に責めて、うつになったり、社会不安となったりして、不登校やひきこもりを作り出してしまうリスクがあることを知っておいてほしい。

 少なくとも大切なことを伝える際に、先生が小学生の子供を脅さないで欲しい、怒鳴らないで欲しいなと思います。もし、それに順応、適応した子も、大人になったら、脅すし、怒鳴る人になってしまうリスクがあるのです。そうしたことを、モデリングさせて本当に、教育、指導なのだろうか?と僕は感じちゃいました。

 日本特有の集団行動の協調性や勤勉さは大事だと思いますし、それを指導することも大事だと思います。しかし、小学生年代のこどもの心の成長発達において、それ以上に重要なことは、子ども自身の内発的な動機で、主体的に取り組めるように、大人たちがサポートすることの方がもっと大事だと思います。外発的な動機付けとして、「みんなができているのに、君だけ、頑張ってない」と糾弾する。短期的には有効だと思います。しかし、それで、適応したとしても、周囲に怒られないように頑張る子になる。そうなると、主体的に物事を取り組んでいく能動性が低下していくリスクを持っている。さらに、適応できなかった子は、自分はダメだと自己否定の世界に没入していくリスクがある。どちらにせよ、同調圧力的に、子どもを糾弾していく手法は、この時代において、リスクが高く、長期的なデメリットが高いと僕は思うんですけど、皆さんは、どう感じているのでしょうか?

2025年7月16日水曜日

ユーモアは、生老病死の潤滑油!

  僕の両親は、81歳の父と76歳の母です。どちらも、病気を罹患しつつ、何とか二人暮らしを続けています。両親の兄弟や知合いに会いに、GWは両親と福井に行ってきました。会う人々も、高齢です。あちこち病気で、ガタガタで何とか生きています。子どもの頃から、立派だと感じていた人も、老人となり、病気の治療を通して、あの治療を受けたから、余計に悪くなったと医者を悪く言ったり、何だか人間臭さを感じました。

 これは、人生の川の流れなんだな~と感じました。人は死ぬまでに、老いるし、病にもなるし、そもそも生きるのはしんどいし、それを時には誰かのせいにしたり、不満を言いつつも、どこかで、受け入れて生きているようにも感じました。その受け入れているような感じが、こちらには、ユーモアとして感じ取ったのだと思います。

 ユーモアは、生老病死の潤滑油なのかもしれませんね。「どんぶらこ~どんぶらこ~」とユーモアとともに、人生の流れに逆らいすぎずに、流れていく感じがして、どこか、心が軽くなった気がしました。

2025年7月9日水曜日

診察室で教えてもらった理論

  日々の診察を通じて、僕の方こそ、患者さんから教えてもらうことも非常に多いのです。

 ある女子中学生が教えてくれたのは、全員がそれなりにハッピーになり、なおかつ公正になるシステムについてです。それは自分の第一志望を宣言し、第一志望に向けて戦略的に行動することが大事だと言われました。初めから「どうせ第一志望は無理だろうと、スタート地点から諦めていると、第二、第三志望に向けて努力することになってしまう。でも、その努力は本来、第一志望に向けられる努力だったから、第二、第三志望が通ったところで達成感も得られにくい。だから第一志望に向けて時間も努力も戦略的に動くことがいろいろな場面で大事になるのだそうです。」 その通りですね。

 僕は、浪人中、駿台予備校に在籍していたので、駿台の「第一志望はゆずれない!」は、そういうことだったのか~、と納得できました。僕は、大学受験で、医学部以外にも、獣医学部、歯学部なども受験したこともありましたが、あまり気が乗らなかったので、答案用紙が白紙に近い状態で出してしまったことを思い出しました。やっぱり、医学部の受験だとテンションが上がり、頑張れました。まあ、毎年落ちるわけですけど・・・。でも、単純に、医者になりたかったのだと思います。これからも、人生の第一志望はゆずれない!「治療的な医師になる」ことを目指して、これからも頑張っていきたいと思います。その女子中学生には、ご指導ありがとうございました!

2025年7月2日水曜日

完璧でないから、つながれる

  今年のGWは、二上山に登ってきました。僕は、低山登山が好きです、普段から運動不足なので、低山登山だと翌日以降に筋肉痛なども少ないのがいいです。

 今回は、登山と、當麻(たいま)寺にお参りしたり、おいしいものを食べたり、道の駅に寄って野菜を買ったりと楽しめました。

 當麻寺にお参りしたところ「完璧でないから、つながれる」という有難いお言葉がありました。日々、僕自身、自分の有限さ、未熟さを感じています、正直、死ぬまでさとることが難しいのだなと痛感しています。でも、そうしたことを認識できていることは、他者の存在の大切さを知ることにもつながります。他者を尊重し、多様な存在やあり方を認める寛容さや優しさは、ひいては、人々がつながり、支えあって生きていくことのできる社会、そして、それを認めあえる世界を創っていくことにつながるという教えがあり、お題の題名につながりました。

 低山登山は、GWでも、空いているし、お金もあまりかからないし、予約とかも要らないし、最後は、延羽の湯(羽曳野市)のサウナで整いました!